最近、家づくりの仕事で、いろいろな質問をしている。今の暮らしについて。これからの暮らしについて。好きなものや、気になっていること。ひとつ質問すると、そこから別の話が始まる。話は、ときどき本題から離れていく。すると、思いがけないところからまた別の話が生まれる。そんな時間が、私は好きだ。今は、質問をして、答えをまとめるだけなら、オンラインでもできる。AIに聞けば、必要な情報を短い時間で整理してくれることもある。それはそれで、とても便利なことだと思う。それでも私は、人と会って話す時間を大切にしている。同じ場所でお茶を飲みながら、顔を見て話す。相手の言葉だけでなく、そのときの表情や、声の調子や、言葉と言葉のあいだにあるものも感じながら。質問の答えだけを拾えば、もっと短く済む話なのだと思う。けれど、話が脱線したところで笑ったり、「そういえば」と思い出したことを話したり、ひとつの話から、思いもよらない別の話へ移っていったりする。そうしているうちに、最初の質問では聞こうと思っていなかったことが見えてくる。それは、情報というより、その人の暮らしの輪郭なのだと思う。家づくりでも、本当に知りたいことは「どんな家が欲しいですか」という質問の答えだけではわからないことがある。その人が何を話し、何に笑い、何を気にして、どんなところで言葉を止めるのか。そんなものの中に、これからの暮らしを考えるための小さな手がかりがある。最近、家族との会話でも、質問することを少し意識している。答えを引き出すためではなく、その人の中にあるものが自分で出てくるような問い。良い質問をすることは、答えを知っていることとはずいぶん違う。問いを置いたあと、すぐに答えを求めず、そこからどこへ話が広がっていくのかを一緒に見ている。その時間そのものに、何かがある。そんなことを考えていたら、ふと、家は、大学にもなるな。と思った。大学という建物がなくても、學ぶことはできる。教える人がいなくても、問いは生まれる。暮らしの中で起きたことを、やってみて、考えて、またやってみる。それを繰り返している。家で稽古する。暮らしが、必須科目になる。人と人が交わし、問い、考え、試しながら、生きることを稽古していく。そこには、先生と生徒という決まった関係もない。私も稽古中。家族も稽古中。それぞれの人生を、それぞれの場所から學んでいる。大学というには、ずいぶん小さい。でも、家というには、ずいぶん広い。そんな場所が、家の中にあるのかもしれない。夕食が終わって、お茶を淹れる。その日のひとつの問いを、お茶のつまみにしてみる。答えを出すためではなく、自分の中にあるものに気づいていくために。話しているうちに、自分でも思っていなかったことが口から出てくることもある。誰かの言葉を聞いて、自分の考えに気づくこともある。そんな時間もまた、學びなのだと思う。効率だけを考えれば、必要な情報を取り出して、整理して、次へ進めばいい。でも、人と人のあいだには、取り出せないものがある。話の脱線。笑い。思い出。言い直した言葉。ふとした沈黙。今日もまた、そんなものの中から何かを習っている。答えを集めるためではなく、その人と、その時間を過ごすために。暮らしながら、生きることを學んでいく。そんな小さな場所を、IK大學と呼んでみようと思う。