昨日の「庭の生態系」の話を綴りながら、ふと、二〇一八年の夏に訪れたインドの光景がよみがえった。そこで目にしたのは、人と動物が当たり前のように共存し、どちらが上でも下でもない、ただ互いを許し合い、協力し合って生きる姿だった。滞在したアーユルヴェーダ施設の広い敷地は、どこに行っても草が美しく整っていた。けれど、そこに「庭師」の姿はない。代わりを務めているのは、敷地内を自由に通り過ぎていく羊や牛たちだ。彼らが移動しながら草を食んでいくことで、自然と豊かな庭が保たれている。そこには、人間が自然をコントロールしようとする「不自然な介入」は存在しなかった。ある日のこと、はるか彼方から一頭のインド象がやってきた。コテージに置いたままのフルーツの匂いを嗅ぎつけて、迷い込んできたのだという。夜中だったが、私たちは一時、安全な建物へと避難した。象は別のコテージのガラスを割ってしまったけれど、誰も象を責めることはなかった。施設の人は、象が元の場所へ戻れるよう、ただ流れを整えるように、ゆっくり誘導していった。その施設には「塀」がなかった。動物の出入りは自由。招かざる客であっても、それもまた自然の営みの一部として受け入れる。その懐の深さに、私は驚いた。傍らでは、当時まだ子どもだった息子が、一心不乱にノートに現地の言葉を書き留めていた。「ナマステ(こんにちは)」「アッチャー(いいね)」大人があれこれ考えるよりもずっと早く、子どもの純粋な好奇心は、その土地の懐に飛び込んでいく。このまっすぐな「熱心さ」こそが、見えない境界線を溶かす一番の魔法なのだと、彼の筆跡を見ながら思う。また、ある日の畑でのこと。「ここは神聖な場所ですから」と言われ、私たちも靴を脱いだ。裸足で土に触れ、その温もりを足裏から受け取る。畑を耕し、命を育む場所への、混じりけのない敬意。大地に対して、そしてそこに生きるすべての存在に対して、祈るように生きること。インドの乾いた風の中で体験した「すべてへの敬愛」は、今も私の心の奥底に静かに流れ続けている。孔雀の羽に浮かび上がった、ハートの紋様。あの日、偶然に見つけたその小さな奇跡は、境界のない世界で見つけた、愛の形だったのかもしれない。昨日の椿の木が教えてくれた「調和」も、インドの象が教えてくれた「許容」も、根底で繋がっている気がする。境界線を引くのではなく、ただそこに在る命を、あるがままに尊ぶこと。実は、この物語には不思議な後日談がある。息子が大切に持ち帰ったはずのその羽は、帰国後、どこを探しても荷物の中から見つからなかったのだ。確かにパッキングしたはずなのに、忽然と消えてしまった孔雀の羽。最初は狐につままれたような気分だったけれど、今なら、それでよかったのだと思える。塀のない施設、自由に敷地を横切る動物たち。あの「境界のない世界」で見つけた愛のしるしは、もしかしたら、閉ざされたスーツケースの中には留まってくれなかったのかもしれない。形あるものは消えてしまったけれど、あの日、足裏で感じた土の温もりや、息子と分かち合った驚きは、今も私の内側の風景となっている。執着を手放したあとに残った、透明な記憶。それこそが、インドが最後に私に手渡してくれた、本当の贈り物だったような気がする。この旅については、当時の空気感をそのままに三部作の紀行文として残しています。もっとたくさんの写真や、現地の風を感じてみたい方は、ぜひこちらのリンクからご覧ください。旅好きの方に、届きますように。あの夏のインドを辿る三つの物語:[ Chapter 1 ] [ Chapter 2 ] [ Chapter 3 ]―― 1月7日で11周年を迎えた [ Blossom Magazine Archive ] より