フジコ・ヘミングさんのピアノを、一度だけ生で聴いたことがある。2012年のソロ・リサイタルだった。今朝ふと、90歳のときの演奏を聴いた。その場所は、かつて修道院の教会だった建物を改修したコンサートホール。静かな聖なる空間に、まっさらな白い衣装を纏った彼女が現れる。「間違えたっていいじゃない。機械じゃないんだから」彼女の言葉が浮かんだ。完璧に整えられた音。正確に並べられた音。それだけでは、人の心はこんなふうには揺れないのかもしれない。90年という時間。そこには、喜びも、孤独も、絶望も、思うようにならない日々もあっただろう。すべてを抱いたまま、鍵盤に触れる。すると、音のひとつひとつに生きてきた時間が重なっていく。その音は、きれいに整えられた音ではない。少し揺れて、少し不揃いで、それなのに、深く心に残る。聴いていると、泪があふれてきた。ただ、その音の中に「生きている」ということがそのまま響いていた。不揃いで、いびつで、だからこそ美しい。その指から流れ出した音色が、静かな教会の空間を満たしていく。白いドレスは、まるで長い人生をともにしてきたピアノとの結び目のようだった。音色が、泪になる。生きてきた時間。それでもなお、音を奏でる命。その人にしかない、魂の響きだった。それは、きっとこれからも誰かの心に響き続ける。永遠の音色。心より、ご冥福をお祈りいたします。Ingrid Fuzjko Hemming - Solo Piano Concert in Bratislava 2022