昨日の日光の話の続きを、今日は庭の景色から。アトリエの愛犬・マナは、今年で六歳。冬の晴れた日、彼女が何より楽しみにしているのは、小庭探索だ。サッシの隙間からこちらを覗いている彼女は、背中にたっぷりとお日様をいただいて、目がうつろになっている。庭に出れば、マナはまるで「放牧牛」だ。おやつ代わりに草を食み、土の匂いを嗅ぐ。その野生に近い振る舞いを見ていると、この庭が、彼女にとっても安全な糧(かて)の場所であることを再確認する。思えば、庭も私自身も、根源は同じなのだ。自分たちが口にするものに氣を配るように、庭にも同じ配慮を届けたい。だから私は、庭木たちに捧げるお水にも、同じように、できる工夫をしている。今でこそ健やかな循環が流れているけれど、ここに至るまでには、忘れられないエピソードがある。庭にある九本の椿の木。その中でも大きめの一本が、ある年、気づいたときには手遅れというほど、突然、丸裸になっていたことがあった。十年前、母が他界し、私は仕事と家事、子育ての荒波のただ中にいた。庭に心を寄せるのを、後回しにしていた時期だった。数日かけて起きていたであろうその異変に、私はまったく気づいていなかった。無残な姿を前にしたとき、私は植物から強烈なメッセージを受け取った気がした。——忘れないで。庭の木々も、私たちと同じように、意識をもって生きている。そのとき、私はそう感じた。だから、消毒という行為が、とても不自然なものに思えた。まるで、もうひとりの子どもに向き合うように。私は、庭との関わり方をあらためることにした。外側で起きる、目に見えるトラブル。植物の虫食いも、人の肌の不調も、実は同じではないだろうか。紫外線がシミをつくるのではなく、内側がどんな状態であるかという「体内の声」が、光を通して現れてくれているに過ぎない。大切なのは、外側の何かではなく、内側の変革だ。それを機に、私は庭への消毒はやめようと決めた。当時の庭師さんには反対されたけれど、植物自身が持つ免疫力を、私は信じたかった。そして、無消毒での手入れを引き受けてくださる今の庭師さんへの縁をいただいた。不自然であった庭への消毒をやめてから、毛虫はもちろん、葉の裏につく小さな卵も見かけることはなくなった。小さな庭の中に、健全な生態系が、無事よみがえったのだ。古くから「神が宿る木」として尊ばれてきた松。見上げたその枝ぶりは、まるで血管や神経のように生命の脈動に満ち、そこには確かに、目に見えない力が宿っているかのような、静かな説得力があふれている。素朴な山野草を愛した母も、そして私も、かつては「松がなければ……」と、その存在を敬遠してぼやいていたものだった。けれど月日が流れ、今の私には、この松の木が、家と庭を静かに守ってくれているように感じられる。庭があり、松があり、この家がある。そのこと自体が、どれほどありがたく、尊いことか。今、心からそう思えるようになっている。丸裸になってまで、大切なことを知らせてくれた、あの日の椿も。今年も、清楚な侘助が、一番に花を咲かせてくれた。小さな犬が安心して土を舐められるこの庭は、私にとっても、内側からの調和を取り戻すための「小さな宇宙」だ。