息子は、よく手を洗う。顔も身体も、入念に。肌が乾燥してしまっても、“洗わないとバイキンが……”という思いが止まらない様子だ。その背景には、小学生の後半から中学生へ移る頃に訪れた、あの急な“マスクの時代”があるのだと思う。友だちの表情は半分隠れ、触れあうことは控える空気になり、毎日のように「除菌」「消毒」という言葉が響いた日々。世界には見えない脅威があり、“油断すると危ない” と、幼い心で覚えてしまった。その記憶は今も息子の中に残っていて、手洗いや洗浄が“過剰”に見えることもある。私はつい、「そこまでしなくてもいいよ」「皮膚、カサついてない?」と声をかけてしまう。けれど息子は、どれもスルーする。その反応に、“ああ、伝わらないか……”という残念さが重なって、ひとことが小言に変わってしまうこともある。どうやら、多感な心には、こちらの気遣いは余計なお世話で、ただのノイズになることもあるようだ。その気づきから、私はようやく立ち止まることができた。息子は息子なりの距離で、世界と向き合おうとしているのだと。大人から見れば“やりすぎ”に見える行動も、本人にとっては自分を守るために必要な、ちょうどいい安全の幅。あの時代を真剣に生き抜いてきた証でもある。今は、急かすことも、正すことも、すこし脇に置いてみる。息子の速度で、“もう少しゆるんでもいいかもしれない”と感じる日が来るのを信じながら。私自身も、接し方を実験してみよう。力で動かすのではなく、そっと寄り添う方法を探すように。「調和」を尊べば、悪役はピリ辛スパイス。適量なら、美味しいのだ。不安も、慎重さも、そして私の小言までも、その日その時を生きるための調味料のひとつ。過敏さは弱さではなく、世界を深く感じ取る力。その力が、いつか彼ら自身の羽になっていくと信じている。子どもたちの世界が、ひろく、自由で、軽やかでありますように。