庭があるということは、季節を、暮らしの中で受け取るということ。芽吹きや、花がひらく瞬間を、自分の時間の延長で見つめられるということ。そのぶん、草もまた、のびてくる。かつては、草取りといえば、どこか「しなければならないもの」でした。けれど、先輩のAさんがいつだったか、「わたしは草取りが好きなのよ、楽しいの」と時折、言葉にされていて。ずいぶん前のことなのに、草にふれるたび、そのときの笑顔が鮮明によみがえります。土に触れ、小さな草をひとつひとつ抜いていく動きのなかで、ただ、いまここにいる感覚が澄んでいく。ありがたいな、と思う。なにかを得たからではなく、なにかが起きたからでもなく、ただ、生きていることそのものが、すでに満ちているように感じられる。そんな感覚を教えてくれたAさんは、ご両親を見送ったあと、ご実家を自分らしく整えて、ご主人と暮らしている。「私たちがいなくなったら、この家は壊されるのよ」と、あっけらかんと笑っていたけれど。その明るさの向こうに、生きていることへの愛しさがにじんでいたようにも思う。丁寧に暮らされた家というのは、どこか、静かな記憶のようなものを宿している。ここを、好きだと感じる誰かへ。どこか似た感覚を持つ誰かへと、その暮らしごと、手渡していくことはできないのだろうか。そんなことを、ふと思う。暮らしを愛する気持ちは、きっと、住む人がいなくなったあとも、どこかに残っていくのだと信じたくなる。日々の営みを、誠実に重ねること。その静かな積み重ねのなかに、ことばにしきれないほどのやさしい充足が、今日も、息づいている。季節がめぐるように、枯れたように見えても、新芽はふと現れる。自然な流れに任せていれば、なるようになっていく。思いにとらわれず、ただ、自由でいい。