今日は秋分の日。祖先を敬い、なくなった人を偲ぶ日。古民家をアトリエにして、生活と仕事を営んでいる今、私の毎日は家事をする時間がちゃんとある。生活は尊く、美しい。お母さんは家(内側)を守る人。庭の手入れをしたり、畑のお野菜でも手料理をつくったり、思いつくままにおやつをつくったり。服をつくってもいい。心地よい音や清らかな水が暮らしに流れている。そんなことを当たり前にしたかった。それを思い出すと、今のことも、選んだことも、進んできた道も、なんとなく納得できる。遠回りや寄り道など、一見無駄のようなことも、あとから、ぜんぶがつながっていたことがわかる。縛りから自由になると、心が静かになる。そこでは、孤独だと思うこともできるし、そこから何かを見つけることもできる。どう受け取るかは、自分で選べる。そう思えると、自分が何者なのかが少しずつわかってくる。大切な人との時間を楽しめるようになったり、新しいことを始めてみたり。そんなことを思う。おはぎをつくったり、味噌をつくったり、料理とお皿が合うように並べたり。片付けて、また朝が来る。季節がめぐるように、同じことを繰り返している。でも、同じように見える一日の中にも、考え方を変えたり、整えたり、よく観察したり。そうしていると、新たに気づくことがある。暮らしというのは、そうやって少しずつ洗練されていくものなのかもしれない。「洗練」と「環境」。振り返ってみると、この二つの言葉は昔から私の中にあった。「洗練」洗う。練る。余分なものを洗い流して、何度も練り直していくような響きがある。そして「環境」。暮らす場所や、そこにあるものを整えていく。古い家であっても、その環境を整える。神棚の水をかえ、お仏壇の火を灯す。線香を焚いて手をあわせる。そんなことも、繰り返せるようになった。休みの日なら、旅に出て、まだ見たことのない景色ややったことのない体験を求めたくなる。それはもしかしたら、まだ見ぬ景色の向こうに、まだ知らない自分を見つけたいからなのかもしれない。身体は、年齢とともに心のままに変化していく。それでも、まだ知らない可能性に出会う旅は続けられる。外へ出る旅もあれば、いつもの家の中で、同じことを繰り返しながら少しずつ深くなっていく旅もある。秋分の日。昼と夜が釣り合うこの日に、また今日も、いつもの暮らしの中で探求は続いている。