昨日の午後は、別府での場所を変えて、墨の香りに包まれる「書道」の時間へと自分を戻す。年始の書き初め、今回は息子も初参加となった。大きな画仙紙に、特徴の異なる墨を磨る。墨を磨る音、その滑らかさ。種類によって、手応えが全く違うことに感動する。低く静かに、空気を震わせる音が鳴るもの。硯(すずり)の上を滑るように、軽やかに擦れるもの。だんだんに水を足し、筆に含ませ、紙に墨滴を落とすように点をかき、筆先で線をひく。素直に墨が水に交わると、滲みなく輪郭が際立つ。水に交わらずに、滲みの美しさを形に残す墨もある。紙が乾くにつれて、その印象はさらに変化していく。煤(すす)と膠(にかわ)でできた墨は、生きている。先人たちの「書きたい」「伝えたい」という熱き想いが煤を滲ませ、点となり線となる。その軌跡を追いかける時間は、いろんな墨との対話でもあった。今年、私たちが選んだ一文字は「笑」と「風」。白川静『常用字解』によれば、「笑(わらう)」は巫女が両手をあげ、身をくねらせて舞い踊る象形だという。神に訴えようとするとき、笑いながら踊り、神を楽しませようとする様子。また「風(かぜ)」は神の使者である「鳳(おおとり)」の羽ばたきで表される。その往来は風のそよぎとして感知され、地の神々の意志を伝えるものとされた。神をも楽しませる笑顔で生きること。そして、大切な意志をあまねく伝える風であること。文字の成り立ちを知れば、一筆に込める重みは自ずと変わる。今は、コミュニケーションも、解決も、すべてが画面の中でも完結できる。便利さと引き換えに、私たちは「字を書く」「息を吐く」「声に出す」といった、身体を通したアウトプット感覚を、どこかに置き忘れてきた気がする。すべての日本人、そして日本に惹かれて訪れる人にも、書道を丁寧に体感することをおすすめしたい。そこには、忘れかけている身体感覚と、自分の中に元々備わっている「何か」を、静かに引き出す時間がある。いま自分は自由なのか、あるいは不自由なのか──そんな発見もある。墨を磨る手の感触。耳に届く、微かな摩擦音。先生のご指導で、無意識に横書きしていた自分の名前を、縦にひらがなでつなげて書いてみる。その心地よさ。日本語との相性、自分との相性。「意外な展開」を面白がる感覚こそが、健全な姿だなと思う。帰りの車中で、息子は、自分の書く字が予想外に変化したこと、そして最後の一枚の出来栄えについて、内心「驚いた」と照れ笑いしていた。外側の幸せを求める旅も意義はある。内側を満たし、通じ合えば、ひとつの体験は無限にひらいていく。そのとき、出来事は評価の対象ではなく、呼吸のようなプロセスへと変わる。失敗も成功も、同じ地平に並ぶ。快調と不調の境界もなくなり、生活の中で解消する。笑って生きるためのバランス感覚を、書の道からも感じていきたいと思う。稽古のあとは、はじめての柴石温泉へ。落ち着いた風情と静けさ、受付の方の対応の柔らかさに、なんだかほっこりした。近々また「あつ湯」と露天風呂が入れるときに、訪れてみようと思う。お世話になっている書の教室。ご興味のある方は、ぜひこちらのリンクより詳細をご覧ください。[風蘭|Furan]